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130年の時を越えて「熊本城本丸御殿大広間」の復元整備
                               熊本市教育委員会 西 川 公 夫
 
 <熊本城の概要>
 隈本城は15世紀後半の出田氏の千葉城(現千葉城跡)に始まります。16世紀の前半に鹿子木氏が拡張し(現古城跡)、城親冬、豊臣秀吉の九州平定により佐々成政を経て、天正16(1588)年加藤清正が肥後半国の大名として入城。「関が原」以後清正は茶臼山一帯を取り込んだ平山城に大拡張し、慶長12年(1607)に新城の完成とともに「隈本」を「熊本」に改めています。加藤家は寛永9年(1632)に改易となり、細川忠利が豊前小倉より入府し、以来、細川家の治世が明治維新まで続きました。明治4(1871)年廃藩置県、明治6(1873)年には熊本鎮台が設置され、終戦まで陸軍の管轄化に置かれました。西南戦争時に本丸中心部の天守閣や本丸御殿など主要な建物が消失しています。明治初期に大半の櫓等が解体されるなど軍によるさまざまな改変を受けています。
 
 大正末頃から城跡の保存・顕彰が叫ばれるようになり、昭和8年(1933)に宇土櫓ほか12の建造物が国宝(現、重要文化財)に指定され、昭和30年(1955)には城跡が特別史跡に指定されています。昭和35(1960)年の大小天守閣の再建をはじめ、西南戦争100年を記念して西大手門の復元、市制100年記念では数奇屋丸二階御広間などの建造物復元を実施し、史跡の保存整備では石垣の保存修理や石垣復元なども実施しています。その後、史跡の追加指定も行われ、現在、旧城域約98haのうち約半分の51.2haが特別史跡となっています。また、都市公園として昭和37(1962)年に都市計画決定(56ha)され、現在約52.3haが開設され、市民の憩いの広場として親しまれています。
 

熊本城全景

 
<熊本城復元整備計画>
 日本三名城のひとつといわれる熊本城にはかつて大小天守閣をはじめ、櫓49、櫓門
18、城門29を数えたと云われています。熊本市では市民の歴史的・文化的シンボルである熊本城の威容を良好な形で後世に伝えていくことを目的として、歴史的建造物等の復元を中心とした「熊本城復元整備計画」を平成9年度に策定しています。
 

熊本城復元予想図

 
 
整備計画の概要
 整備内容が多岐にわたるため、城域を本丸(保存・復元ゾーン)、二の丸(緑の遊園ゾーン)、三の丸(歴史・文化の体験学習ゾーン)、古城(エントランスゾーン)、千葉城(文化交流ゾーン)の五つのゾーンに区分し、それぞれのゾーンに見合った整備を効率的に進め、計画を短期・中期・長期に分けて整備を進めることとしています。短期的には築城400年にあたる平成19年(2007)を節目として次のような整備を行っています。
 

短期整備計画図

 
・西出丸一帯(南大手門、戌亥櫓、未申櫓、元太 鼓櫓、塀ほかの復元)
  事業年度 平成10~15年度
  総事業費 約19億円(文化庁、熊本県補助)
・飯田丸一帯(発掘調査、石垣修理・復元、飯田丸五階櫓の復元)
  事業年度 平成10~17年度
  総事業費 約11億円 (文化庁、国土交通省、熊本県補助)
・本丸御殿一帯 (発掘調査、石垣修理、大広間棟・大台所等建物復元、建物平面表示)
  事業年度 平成11~19年度
  総事業費 約54億円 (文化庁、国土交通省、熊本県補助、及び復元整備基金など)
 
<本丸御殿一帯の復元整備>
本丸御殿の歴史と復元に至る経過
 本丸御殿は加藤清正によって慶長15(1610)年頃に創建され、細川忠利が寛永10年から12(1633-35)年に大改修、増築した建物群で、さまざまな維持修理を受けながら幕末まで存続したと考えています。明治10(1877)年、西南戦争直前の2月19日に天守閣とともに焼失しています。
 本丸御殿は、桃山時代の武家風書院造で、藩主の居間、対面所(接客の場)、台所などの機能が備わった殿舎群で、大広間・大台所をはじめとして、当時は53室、畳数1,570畳を数えたといわれています。 復元にあたっては、特別史跡であり重要な歴史遺産であることから、史実に基づき忠実に復元することが必要であるため、発掘調査の成果や古写真、文献資料、古絵図資料、木割書等の歴史資料及び創建時期を同一とする類例建物を基本資料として基本設計の作成を行ない、国の復元検討委員会の審議等を経て、文化財保護法による現状変更等の許可を得て実施しています。
 

「御城内御絵図」(個人蔵)

 
 発掘調査
 発掘調査は本丸御殿の全体を把握するため、復元根拠の重要な資料としている「御城内御絵図」の建物配置を参考にして大広間跡を中心に全面発掘とトレンチによる確認調査を含め約4,740㎡の調査を行っています。明治10年西南戦争時に焼失直後の遺構を検出して実測し、瓦や建築金物などの遺物は出土地点を記録し取り上げています。調査では検出した石垣、礎石や礎石列などが絵図とほぼ一致していることを確認しています。
 
発掘遺構と建物配置図

発掘遺構と建物配置図

 

発掘調査全景写真

 
復元設計
  復元設計は発掘遺構を実測し、検出した礎石や石列、石垣などを「御城内御絵図」と比較検証し、礎石に残る柱痕跡などから、建物の基準柱間や柱寸法を確認しています。また、出土した多種多様な瓦・飾金具・襖引手などの遺物は復元の重要な根拠資料となっています。
 

「御城内御絵図」本丸御殿部分

 

「御城内御絵図」本丸御殿部分

 
 そのほか歴史資料や古写真などを復元根拠としているほか、熊本城に関する資料だけでは確認することが困難な内部意匠などについては、同時期に創建された名古屋城本丸御殿や二条城二の丸御殿などに倣っています。
 
  基礎工事
 本丸御殿は天守閣側と大広間棟側の二つの郭に区分され、周囲は全て高石垣で構成されています。建物を支える石垣は明治10年の西南戦争の際の火災熱により焼損を受けたり撤去されています。また「闇り通路」両側の石垣は明治22年の金峰山地震により崩壊し復旧されています。今回の復元に当たっては焼損した石垣の強度などを検証し、最小限の解体修理を行い、撤去されている箇所は遺構に倣い復元を行っています。また、「闇り通路」両脇の石垣は、明治中期に積み直された以後建物を載せた事がないため、建物荷重を基に載荷試験をおこない支持力が充分であることも確認しています。
 

石垣修理箇所図

 

石垣修理立面図

 
 遺構面は石垣天端石や裏込栗石、礎石等により凸凹があり、火災による焼損した礎石等も多いことから、焼損した石材は保存処理を施した後、遺構面を養生シートにて保護のうえ山砂で埋め戻し砕石を敷均し転圧を行い、ビニールフィルムを全面的に張り、コンクリートを打設し、遺構面全体を保護した後に新たな礎石を据えつけて土台としました。
 

遺構保存と基礎工法


遺構保存と基礎工法


遺構保存と基礎工法

 
 「闇り通路」は、両側の石垣が載荷試験の結果等により安全性が確認されたことから、在来の工法に倣い、通路両脇の石垣に直接土台を据え、これに大梁を架け、通路の南よりに立つ独立柱は遺構に基づき元の位置に再現しています。また、礎石等は焼損を受けているため保存処理を施し、遺構養生を行なったうえに鉄筋コンクリート基礎を設置し、新たな
礎石を据付けています
 
 整備事業の概要
 ・事業期間 平成11年5月 ~  平成20年3月    
・総事業費 約54億円(発掘調査、設計監理、石垣修理含む)
・建築工事費 4,222,864千円
・設備工事費 250,193千円            
・建物概要 復元建物…木造・入母屋造、
       地下1階・地上3階建
       屋根:土居葺下地、本瓦葺、目地漆喰塗
       基礎:礎石、石垣、遺構養生のうえ鉄筋コンクリートベタ基礎
       外部:大壁 小舞下地 土壁・漆喰仕上、腰壁部分 下見板張り塗装仕上
       内部:真壁 小舞下地 土壁・漆喰仕上
          床 畳敷き(580畳)、板張、一部土間叩き、地下通路 土壌硬化舗装
       玄関棟・・・鉄骨造、屋根銅板葺、ガラス張り
       延床面積…2,951.11㎡(約893坪…3.306㎡/坪)
 

完成した本丸御殿

 

大広間北側(大天守最上階より)

 
復元整備のまとめ
 築城400年に当たる平成19年度を目途に進めてきた復元整備工事は、遺構保存に考慮しながら史実に忠実な復元を目指してきました。復元に当たっては伝統的な継手仕口の工法を駆使して木材を加工・組み立てています。また、使用木材は約1,800m3に上りますが約50%を県産材で賄うことができています。大工、左官、瓦葺き、石工などの職人さんも、文化財の修理を手がけた経験を持つ人々を中心に地元採用を優先的にするなど、伝統工法の技術の継承も復元の大きな役割であると位置づけ実施しました。
 
 本丸御殿大広間は藩主の対面所などとして使われたと云われ、全国でも例がない「闇り通路」内に玄関が設えられています。玄関からは大広間の「式台之間」と「鶴之間」へ通じる階段が設けられていました。今回の整備では緊急自動車等を天守閣前まで通行させる必要があることから、階段等は部分的に模擬的な復元としています。「闇り通路」を抜け新たに整備した玄関をいると大台所棟の「御膳立之間」に至り、ここでは本丸御殿の歴史や復元の過程などを展示・説明しています。「大台所」(イロリ之間) は吹抜けの構造となっており上部には煙出しがあり、小屋組みには直径約1.0m、長さ約12mの巨大な赤松の梁が上部の大屋根を支えています。大広間棟の玄関口でもある「式台之間」「鶴の間」を経て「梅之間」「桜之間」「桐之間」と広間が続き、その奥には床・棚・付書院を備え、金碧障壁画を再現した「若松之間」「昭君之間」と続きます。「昭君之間」は慶長時代の特色である鉤上段や張台構を備えた最も格式の高い部屋となっています。
 

大広間南側 露地

闇り通路

大台所(イロリ之間)

大広間縁側

若松之間

昭君之間

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 平成20年4月20日から一般公開し多くの見学者をお迎えしています。熊本城を訪ねていただき「清正流」と云われる高石垣や宇土櫓などの重要文化財建造物とあわせて、桃山文化の粋を集めて復元された絢爛豪華な空間を体感していただきたいと思います。
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